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死ぬまでにやり遂げたいこと① - colorslifeの日記

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突然ですが、あなたは明日トラックに轢かれて死にます。

そんなこと言われたら、あなたは何を思いますか?

 

急に何かというと、ひとつ前の記事で書いていたNLPの講座の課題がこの「死ぬ前にやりたい目標」からチャンクダウンしていき、3ヶ月でやり遂げる目標を立てるというものなんです。それもただの目標ではなくて達成した後に”自分の人生に価値がある”と思えるような目標、もしくは普段の自分では絶対に挑戦することがない自分の苦手なものを克服できるような目標を立てるとのこと。

 

↓ひとつ前の記事

colorslife.hatenablog.jp

 

死ぬ前にやりたいこと…。

友達や知り合いなんかに聞いてみると

「宇宙に行きたい」

「自分の国に帰って親に会いたい」

「映画の主人公になりたい」

 

そんなような答えが返ってきて、人それぞれだけれど”死ぬ前”、死生観が絡んでくると人は大きな夢を語るのだなぁと感慨深く。(一つはただのホームシックですが笑)

 

じゃあ私はなんなのかなぁと考えても、なかなか出てこないんです、これが。

「もっと世界を見て回りたい、オーロラを見に行きたい」とか

「海辺暮らしがしてみたい」とか

「親孝行しないとなぁ」とか

そんなようなことは出てくるのですが、親孝行は”しないと”なんてもはや義務みたいになってるし、私、親のために生きてるわけじゃないしなぁ。(両親にはとっても感謝しているし、穏やかに自分の好きなことをして過ごしてほしいな、と心から思ってはいますよ)それにこれから少しずつやっていくだろうし、別に苦ではない。

 

世界を見に行ったり海辺暮らしをして私の中に潜む深い価値観が変わるとも思えない。表面的には楽しいと思えるだろうけれど、それに人生に価値があるか?と言われるとそれもよくわからない。

 

ここでNLP的な目標の立て方を説明すると、なりたい自分や体験に対して自分を内観してその感覚がより強いものを採用するという方法。

私も最初はその手法でなんとなく立ててみたのですが、その手法において最初に出てきた死ぬ前にやりたい目標は「リモートワークができる仕事に就き、音楽も更に極め、世界中で働きながら世界中の人と音楽を楽しむ(バンドとか)」でした。

 

そこから3ヶ月で達成できる小さな目標を絞り込んでいくわけですが、勉強中のプログラミングで「副業で10万稼ぐ」「クラウドソーシングで10件仕事をこなす」とか出てくるには出てくるものの、どうにもしっくりこない。それでいいの?本当に価値があるの?感がすごくて。

 

「こんな感じでいいのでしょうか?」

講座の先生に尋ねてみたところ、死生観が反映されていない。もっと死ぬ直前のイメージをリアルに感じ、その感覚から考えなさいとのこと。

そしてその場でやっていただいたのが冒頭のトラックに轢かれるシーンでした。

 

目を閉じます。

それは夜です。

目の前にトラックが迫っています。

どんどんトラックのライトが広がっていき視界が真っ白になります…

 

さぁそのとき、どう感じる?

 

最初にそれをやったとき、私の感覚はなぜか恐怖や恐れは何もなく、”あったかい感じ”

今にも走馬灯が流れ出してきそうな、穏やかな感じだったんです。

 

けれでもそれは”死ぬ前”ではなく”死んだ後”の諦めた感覚だそうで。

はっ、としました。私は諦めているのか。

 

確かに最近の私は何か大きなことに挑戦することもなく、自分が傷つかないように苦しまないように、”ま、こんなもんだろう”そんな風に生きていた気がする。

これではいかんともう一度死ぬ前の感覚に集中してみました。

 

目を閉じます。

目の前にトラックが迫っています。

どんどんトラックのライトが広がっていき視界が真っ白になります…

 

出てきた言葉は「絶望」

その絶望から感じる感覚は、とても胸がキューーーっとなるもの。

「悔しい」時の感覚と似てるかな。

 

私、何かやり残したことないかな?諦めてしまったことあるんじゃないかな?

そう思い、しばらく毎日その苦しい感覚を感じながら考えてみることにしました。

 

トラックで轢かれる自分

お風呂に入っている時、そのまま水が天井まで迫っていき溺死する自分

駅のホームにて電車に激突される自分

得体の知れない何か大きな物体が急に降ってきて潰される自分

物騒ですが毎日自分を殺し続け、笑 でてきた最も悔しかった自分は中学校の自分でした。

 

中学の頃、小学校の頃とっても仲良しだったお友達数名と同じ部活に入ることになり、それがとても楽しみで楽しみで。今後の3年間はきっと光に満ちた明るい学生生活だと疑うことのなかった自分。

けれど、思春期の子供は残酷ですよね。ひょんなことから一人に嫌われてしまって、いじめに発展しちゃいました。仮入部が終わって本入部の1日目、体育館へと続く角を曲がって体育館の入り口前にみんながいることを確認、大きく手を振って挨拶した私。仮入部の時みたいにハイタッチで迎えてもらえる、そんなことを期待していたけれど、返ってきたのは”無”でした。

あれ、無視されてる?

それでもきっと時間が経てばまた仲良くなれる、そう思って部活には頑張って参加していました。

するとある日急にみんなが声をかけてくれるようになり、あだ名まで付けて笑って話してくれるようになりました。あ、なんだ、やっぱり皆んないい子たちだな、楽しい生活送れるかな!なんて勘違いした私。けれども何も知らずに喜んでいる私を見るに見かねたのか、同じ部活の子が「あのあだ名は仲良くするためのあだ名じゃなくて、身体障害者って意味のあだ名で、馬鹿にされてるんだよ。」と教えてくれました。

ショックでした。

実力があれば立ち向かえたかもしれないけれど、私気も弱いし下手だったんですよねぇ😂ただ友達がいるからって理由だけで入ってしまったのが失敗だったのかな。

 

それからはさすがに傷ついて頑張ることもできなくて、その部活は辞めることになりました。1ヶ月しかいれなかったな。

謝ってもらったような記憶もなく、ただ悔しい思いをしながら逃げた。もちろん自分を守るためにはそれも大事な戦略だけれど、私の中では”逃げた”という体験で、でもこれが初めてではなくてなにかと強い立場の人間には萎縮してしまって攻撃を受けがちな私。

 

自分に何か胸を張って立ち向かえるようなものがあれば。

そんなものが欲しいな。

 

というものが出てきました。

そしてもうひとつ私が諦めたこと、それは「音大に行くこと」。

 

ずっと続けていたピアノ、もっと学びを深めたい。そう思い高校の頃は音大に通うべく練習に明け暮れていたのだけれど、家庭の事情で勉強もバイトも頑張らなければいけなくて、実力もなにか光るものがあるわけでもない。それでも頑張っていたけれど、段々苦しくなってしまって。難しい曲になればなるほどどんなに頑張っても弾けない。時間も足りない。お金も足りない。こんなんじゃ音大に行けたって私将来食いっぱぐれるんだろうな。音大に行かなくたってピアノは続けられるさ。

そう思って音大への道は閉ざし、一般大学への受験に切り替えたのでした。

それから社会人になりようやくピアノに手をつけられる状態に。

簡単な曲をたくさん増やすことで小さなレストランでのBGM演奏をさせていただけるようにはなりました。けれどももっと活動の幅を増やしたいとなると、実力がやはり足りない。

技術を上げるならばレッスンも増やさないといけないし、そうなると時間もお金も…あれ、またあの頃に戻っていないか?

本業もあって生活の保障はできているわけだし、小さくても弾かせてもらえる場所もあるわけだし、そんなに苦労しなくても弾ける曲でゆったり楽しくやればいいじゃん。もう苦しまなくてもいいじゃん、楽で楽しい生き方をしようよ。

 

これが”諦めている”の正体なのかも知れない。

 

そう気づいてから、じゃあピアノをまた頑張ろうか?

当時弾けずに挫折してしまった難曲たちを習得して実力で立ち向かっていけるようになるのがいいのだろうか?

 

本当にこれでいいのかな…なんて考えているうちに、3ヶ月のうち0.5ヶ月が経過してしまいました。

 

長くなってしまったので続きはまた次の記事に書こうと思います。

お読みくださった方がいらっしゃったら、ありがとうございました。

 

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